創業180余年、天保時代からの伝統と志を受け継ぎながら、
現代の暮らしに合わせた仏壇・仏具、お葬式をご提案

アクセス

  • 愛ホール1・愛ホール2へのアクセス

    〒542-0072 大阪市中央区高津3-1-3 銭辰ビル

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    〒543-0042 大阪市天王寺区烏ヶ辻2-4-5

3分でわかる銭辰堂

創業180余年、天保時代からの伝統と志を受け継ぎながら、
現代の暮らしに合わせた仏壇・仏具、お葬式をご提案

創業と名前の由来

銭辰堂は「ぜにたつどう」と読みます。仏壇・仏具店あるいは葬祭ホールの名前に「銭」という文字があるのを不思議に思われる方も多く、銭辰堂は珍しい屋号だと言われて参りました。

もともと江戸年間には、両替商「銭屋」を営んでいたそうですが、その後仏壇商に転業したようで、天保3年(1832年)発行の古文書「浪華買物独案内」に、銭屋季兵衛が仏壇商として記載されています。大阪大学 元名誉教授、宮本又次氏の研究によれば、さらに少なくとも50年くらいは遡って繁栄していたものと証明されています。

銭辰堂のロゴマークの朱色

二代目辰之助が「銭屋」と「辰之助」を合わせて「銭辰」と称号し、現在にも残る呼び名が生まれました。ロゴマークは、当時のお金の形に辰之助の「辰」が合わさり、この形になりました。

また銭辰堂ではロゴマークの色に朱色を使っており、仏壇店の色としては珍しいと言われます。おめでたい色とされる朱色は、仏事や不幸には合わないという考え方もありますが、本来お仏壇をご本尊さまにお守りいただくのはおめでたいことであると考えているので、創業時より朱色をロゴマークや建物・社用車などさまざまなところで使っております。その目立つ色の建物は地域の目印にもなっています。

街中で私たちの車を見かけたら、幸運になれるとかならないとか。

大阪仏壇と銭辰堂

聖徳太子の四天王寺建立の際、百済から技術者が招かれ、上町台地に住んだと伝えられ、これが起源になって仏師、仏具師、彫刻師等による産地が形成されました。また1600年頃の北御堂、南御堂の落慶により多くの仏壇仏具師がその界隈に住み、この地域で多く仏壇が作られるようになり、現在に至ると伝えられています。

ここで作られた仏壇は大阪仏壇と呼ばれ、昭和57年には経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。

銭辰堂は何度か移転をしていることがわかっていますが、半径数百メートルの範囲で事業を続けております。この大阪仏壇の本場とも言える場所で、伝統仏壇(大阪仏壇)一筋に他社より卓越した技術を結集し、信頼をモットーに製造販売に邁進してまいりました。

お陰をもって今日、全国的に仏壇なら「銭辰堂」と言い伝えられるようになりましたのは、ひとえに皆々様の厚きお引き立てと感謝いたしております。

愛ホール1・2と愛ホール夕陽丘の運営

また、当社葬祭部では本社併設の葬儀ホール「愛ホール1」「愛ホール2」と天王寺区内で唯一の家族葬ホール「愛ホール夕陽丘」を運営しております。

どちらのホールも鉄道・バスなどの公共交通機関がしやすい場所にございますございます。ご葬儀全般を気配りの行き届いたお手伝いでご家族様の想いに応えて参る所存でございます。

社長からのメッセージ

昔から取引先様や常連客に親しみを込めて『ぜにたつさん』と呼ばれてきました。『あきんど』の町である大阪人気質、長年の商売で得られた信頼の証としてと思っております。

商売とはよく『三方よし』と言われたものです。売り手、買い手、世間とのすべてがよい関係でないと商売はうまくいかないものです。 お互いの信頼関係が築けてこそなりたつものです。そこには5年や10年の年数では足りない何十年、何百年といった真面目に商いをするご先祖様の姿があったからこそだと確信しています。

三方の【世間】に私は企業としての存在価値があると考えています。銭辰堂は売り手としてだけではなく、世間を担う存在として、「お仏壇・仏具の販売を誠実に」「気配りの行き届いたご葬儀全般」を行うことで、お客様・ご家族様の想いに全力で応えてまいります。